世界のユースセンターを巡る旅人

世界を旅する日本人とフランス人の話。

「お金なんていらない。」「お金は嫌い。」という過ち。【自給自足体験より】

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お金という壮大なエネルギー

1ユーロ、1センチも使わない生活して分かったことは、人間はお金という壮大なエネルギーによって便利さを得ているということです。お金は便利だけど、その裏に壮絶な苦労や経験、努力を隠しています。

その隠れているものはこちらの記事で→

 

mayonakanoonara.hatenablog.com

 

その普段見えずらい、隠れてしまった苦労や経験、努力を知っておくことは、もしかしたら人間が生きるために必要な「何か」を教えてくれるかも知れません。

そしてその学びは、きっと自分が本当にしたいことを気づかせ、無駄な欲望や感情を教えてくれると思います。お金がない生活は我々に普段はない「何か」という学びを提供してくれるのです。

ここで間違ってはいけないのは、「じゃあ世の中からお金をなくせばいいじゃん」という考えに至ることです。お金を使わないということは人間本来の姿と思う人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。

人間は常に進化し続けているし、その段階でお金ができたということは何らかの意味があります。

そんなようなことを、つらつらとまとめました。

 

 

キンコン西野さんによるお金の歴史 

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人間の経済活動の始まりは「物々交換」らしい。
昔話すぎて、実際のところは良く分からないけどね。
物と物を交換していた時代の経済のことを「自然経済」と呼ぶんだけど、この自然経済には少し問題があった。
漁師「俺が釣った魚を、米と交換してくれよ」
農家「ごめん。今、魚は要らないんだよね」
服屋「あの、横からすみません。俺、魚が欲しいっす! 服と交換してください」
漁師「ごめん。今、服は要らねーんだわ」
こんな感じで、物々交換が上手くいかなかったんだ。
そこで、どんなものとでも「交換」できて、さらには、どれだけ「保存」していても腐らないという奇跡の取引アイテム「貨幣(お金)」が誕生した。
そして、「貨幣」を媒介物として商品やサービスの交換がおこなわれる「貨幣経済」へと発展したわけだ。

 

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以前、この歴史をさかのぼる経験をしました。自給自足という生活のなかで、物々交換などをし、金銭ではない人間関係、つまりちょっとした「自然経済」を体験したのです。(マルシェでの販売もしたため完璧とは言えません。)その自然経済を体験してわかったことは、現在の貨幣経済よりも、人と人との距離が近いということです。

きっと人が直接的に会話をする、もしくは顔を合わせることで、信頼を築きやすいのではないでしょうか。例えば、街に出向き、人と関わり、そこでものを交換する、あるいは何かくれた人や土地を貸してくれる人に、取れた作物を届けるということです。つまり、お互いが持っている何かを活かし、同じ場で同じ空気を吸い、コミュニケーションをとり、ものを届ける、または交換するといった感じです。

普段からそのような場には、お金で飛び越えるものを含む関わり方、空気感やコミュニケーションツールが複雑に絡み合いあうことで、相手のイメージ像が頭の中でできます。そして、「彼になら何かあげたい!」「彼になら何かサポートしてあげたい!」という思いが重なると、信頼と物とがお金と関係なく交差するのです。(ときにお金も含んで)

 

もしかしたら、この状況は信用経済?

キミの親世代は「働け」と言うかもしれないけど、信用経済においては、「働く」の定義が、「お金を稼ぐ」から「信用を稼ぐ」に変わってくる。
正社員よりも収入の多いニートが出てくる。
社長よりも豊かなホームレスが出てくる。

自給自足を教えてくれた方は、お金にあせらされたり、お金に動かされたりしていません。先程言ったように、信用によって人と繫がり、信用によってものやお金が交差しているのです。つまり「お金を稼ぐ」世界ではなく、「信用を稼ぐ」世界です。

貯金はほとんどありません。でも心は豊かなのです。そこにラットレースをし、「辛いと楽しいの緩急」で生きることが幸せという価値観はありません。

つまりお金=心が豊かという関係式は崩壊した信用経済であったのです。

 

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マルシェでの販売も同じようなことがあります。スーパーで誰かが作ったものを買うのより、気分がいい人が多くいるみたいです。つまり、スーパーでは買うときに相手の姿も見えず、コミュニケーションもない、そのような状況で金銭で信用を判断するのは難しいようです。

マルシェという金銭を介した交換の場があったとしても、そこに相手の姿、雰囲気、表情があるだけでスーパーで売るよりも「信用を稼ぐ」ことができます。別に無理をしなくてもいいのです、自分の好きなことをして好きなものを売っていれば、、気づけばそこにリピーターができて、友達ができて、いつか自分の畑、フィールドを見に来てくれる人ができて、、

そのような関係の方々を見る経験をしました。

つまり、信用によって、ものやお金が動かされている世界です。

 

ブランド名に振り回される人間

 

今の世の中では、大金を払ったからといっても、それに信用があるかどうかわからないものがたくさんあります。

ブランド名だけで高い値をつけられる。そのものが必要な理由、そのブランドの本質とか理念とか考えて、大金を払って、物を買っている人はどのくらいいるだろうか?と疑問に思うことがあります。(人に見られたときに、身につけているブランド名から自分が見られるという、自分を誇示したたいだけはとてもださい。)

 

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最近フランスを含め、ヨーロッパでは空前のBIOブームが起きています。無農薬は健康に良いと考える人が増えたためです。スーパーにはBIOコーナーができ、日に日にBIOの商品は増えてきています。

当然、手間暇かかるBIO商品は、他のものより値段が高くなっています。必然的にお金がない人には買えず、ちょっとしたブランド化し始めているのが現状です。

増え続けるBIO商品・健康を買うのにはお金に余裕がある人という認識の拡大、そしてBIOだと高値で売れるということがつながり、一般市民のBIO商品への疑心暗鬼が生まれてきます。

「本当にそれが農薬を使っていないのか?」

「もしかしたら農薬を使っているのではなかろうか?」

「ただ高く売りたいだけじゃないの?」

このようにスーパーで売っている商品には値段が高いだけで、「信用を稼ぐ」ことが難しくなってきている部分があります。

こういった、相手の顔の見えない貨幣経済の進展は、信用をお金によってパスしすぎてしまい、逆に信用を壊していく可能性があります。便利なお金は、信用より下の立場になってきたのです。

このようになったときに、

「だったらお金をなくしてしまえばいいじゃない。」「お金がなければ信用壊れないんでしょ」「人と人との関係も良くなるかも?」って思う人がいると思います。

 

お金をなくすことで、世界が平和になると説く前澤友作さん(ZOZOTOWN社長) 

 

その代表が前澤社長なのではないかと思います。

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お金がないと生きていけない、という洗脳的な固定観念から人々が解放された時、人々は改めて生きる意味や働く意味を再考するでしょう。本来の人間らしさを取り戻すのです。

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「お金がないと生きていけない」という洗脳的な固定概念から人々が解放されるべき、という立場は同じです。なぜなら、その洗脳的な価値観は、人生を苦しめる結果をもたらすかもしれないから。。そして、そのことは多くの経験をお金によって、阻害すし、人間性の是非にまで関わることがあるから。。

ただ、西野さんの語る歴史と、私たちのした経験を組み合わせると、「お金がないと生きていけない」という価値観は、すでにお金を踏み台にして「信用が無いと生きていけない」に変わってきているのではないでしょうか。戻るのではなく、踏み越えつつあるのです。自給自足で体験した世界は、まさしくこの踏み越え始めたものでした。

信用があるからこそ、貯金がなくても人が集まり、サポートがあり、生きていける。趣味に没頭することができる。趣味が人と人を繋ぎ、また信用が生まれる。

それを踏まえた上で先ほどの言葉で気になるのが、お金を世の中から消すまで極端なことをしないと人間が信用の大事さに気づかないと諦め、そのことが「人間らしさ」と語っているている部分です。

これに関しては少し疑問があります。なぜならこれに相反して、お金をなくす以前に、お金があるよりも信用の方が大事と考える人間は増えてきているからです。

 

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また先ほどの前澤社長の文章の冒頭には、このようなことが書かれています。

僕が考える世界を平和にする方法は「世の中からお金をなくす」ことです。お金は便利な反面、その使い方や意味を間違えると、人と人の繋がりを分断します。人に対する愛や感謝や敬意を忘れさせ、格差や劣等感や無力感を増幅させます。

この文面から見ると、お金の使い方や意味を間違える人が多いため、人と人の繫がりが分断され平和ではなくなっていると読むことができます。だからこそ、お金を世界から無くそうと前澤社長はしているらしいのです。

お金がある世界で、いろんな人が信用を築くことにあきらめを感じたように感じます。自分自身で信用はお金では買えないと気づきながらも、お金から抜け出せない様子が見て取れるのです。

 

正しいと思ったらやらないと、、

 

お金が必要だったら、お金を求める人間がいる。信用が必要だったら、信用を求める人間がいる。

人間はいつでも何かを求めているので、きっとお金が無くなったからといっても、求める対象がお金から外れるだけで、何かに移ろいで行くのではないでしょうか。

つまり、お金の無い世界がいいと思い、求めるのなら、初めから自己満足のために、お金を求めない生活をしてみたらどうでしょう。きっと、お金を忘れて、愛とか感謝、敬意だけを求めて生活し、それらを得た方がそのような人は幸せになれると思います。

だからお金が必要じゃない世界の方がいいと思ったら、持たなければいい、自給自足すればいい、趣味だけで生きてみたらいい、それだけの話なのです。自分がそれを心から求めて、必要ならば自分のために実行すればいいのです。そうしたらきっと結果がわかります。

そのことが本当に平和をもたらすかどうかを、、

 

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人間らしさを勝手に定義するからこそ分断する社会

 

お金とか信用とかより、たぶんここで一番重要なのは、よくいろんな人が「本来の人間らしさ」という言葉を簡単に使うということです。前澤社長はお金の無くなった世界で、感情を取り戻した姿こそが本来の人間だと定義しています。

でも本来の人間らしさとはいったいなんでしょう。

本来の人間らしさを語る上で1つ言えることは、人は失敗と気づくと過去に戻ろうとします。「お金がない世界はよかったはずだ、」「愛や感謝や敬意を取り戻すために、お金を無くそう」と考えているのでしょう。

確かに、お金が無ければ人と人との距離は変わるかも知れません。人によっては大きく変わるでしょう。ですが、お金があっても無くても、信用の方が大事で信用を求める人は信用を得ようとします。愛や感謝や敬意の方が大事な人は、お金よりそちらを優先するはずです。

その人達がただお金に興味が無いのなら、そこにお金を無くす必要はあるのでしょうか。そのようにして考えたとき、その過去に戻ること(お金を世界から無くすこと)だけが、「本来の人間らしさ」なのでしょうか。

それはただの勘違いです。

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先ほどの西野さんのいう歴史の中で、どこが「本来の人間らしい」部分だったのでしょうか。全ての歴史は、すべて人間が行ってきたことなのです。

人間なりに考え、人間なりに求め、人間なりに幸せのムーブメントを作り、その時代の中に溶け込み、いつか違うムーブメントの時代が来る。こうして作られた社会の中で、どれが本来の人間なのでしょうか?失敗や過ち、成功も全て人間です。

お金を求める時代にお金を得た人間、信用を求める時代に信用を得た人間。きっとどちらも幸せでしょう。そしてどちらも人間です。

ただ、この人間はその時代にある、幸せのムーブメントの上で生きているだけなのです。そのムーブメントにある、求める「何か」によって、きっと社会は変動し、時代は成り立っています。

その「何か」がこれから信用になるのなら、

・人々は信頼求め合うでしょう。

そして、

・信用のあるもの同士でグループをつくるかも知れません。

・もしかしたら他の信用によってできたグループを攻撃し、争いが起きるかも知れません。

・もし近くの人で信用を求め合ったら、遠くの信用のない人には攻撃的になるかも知れません。

・人は信用がないと阻害されるかも知れないと恐怖し、信用のために偽善をするかも知れません。

・信用によって信用を裏切られ、傷つくかも知れません。

また、

・お金がなく自分の作ったものを誰かにあげるのなら、自分が真心込めて作ったものを、信用のない人にあげたいでしょうか?

・もらった瞬間燃やすような人にあげたいでしょうか?

・相手に信用をもらえるように縛られた行動をするのではないでしょうか?

つまり、お金がある、ない、どちらの世界でも全ての人が信用を得られるように求めあったら、お金があったとしても、お金を超えた関係になれるかも知れないのです。そして、お金以外の何か(例えば信用)を求め過ぎたら、違う問題が起きるかも知れないのです。(これって平和になりますか?)

このように人が何かのムーブメントの中で、勝手に「人間らしさ」を定義するからこそ、他人を阻害することになっているのではないでしょうか。ただ、人間らしさを問うだけでいいんじゃないでしょうか。

お金によって求めるものがなくなったとしても、人は何かを求め生きている限り、求める対象が移ろいでいくだけで、人間らしさがどーたらこーたらよりも、平和になるとは限らないのです。

ただし、貨幣経済の社会は変わりつつあるのは確かです。

 

人間らしさの種を集めよう

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「お金がないと生きていけない」という洗脳的な固定概念が嫌いで、社会的に強いられるそれから解放されるために、0ユーロの自給自足生活をしました。言葉だけ聞くと、「やってみたい!」「面白そう!」とか思うかもしれませんが、やる以前の見た目の感情と、やってみるのではかなりの差があります。

これはやってみないとわからないことですし、趣味の範囲なのできっと好き嫌いが分かれることです。しかし、お金がない生活というのは「人間らしさ」というのを教えてくれるとか、それが「人間らしさ」とかいうことではなくて、「人間らしさ」を考えるための種になるということです。

お金がないと人はどのようになるのか、自分はどのように行動するのか、「人間らしさ」「人間の可能性」「自分らしさ」「自分の習慣」いろんなことを研究することができるのではないでしょうか。

 今回、このような経験をすることができたので記事にしています。お金のない生活をしたことで、自分らしさ、自分の生活、人間についてさまざまなことを考えました。そして今後、人生を自分を考える上での種を貰いました。

そこで気づいたことは、「お金は必要なときにはつかうべし。」ということです。0ユーロを体験する前の考え方とは変わりました。(豪遊とかをするというわけではありません)

なぜなら、人は1人だけ、1人の経験だけで生きていくのには、今の時代でとても困難だからです。(サバイバルで生きていきたい人は別として)生活していく上で、自分1人の経験や力で補えない部分は、お金があることによって信用する何かや、サービスを受け取ることができます。お金によって経験や力、知識を交換することができるのです。こんなことを考えると、お金のみが平和と関連するわけではないのです。

お金を無にするということは、相手の経験や知識、信用の価値を人としての価値としてしまいがちになります。経験や知識、信用だけが人の価値、「人間らしさ」ではありません。お金はすでに、人間の多様性の1つの要因になり、人間の可能性を増やしただけなのです。

別にお金で交換しなければならないとは言ってません。お金を使わず、信用で交換できるならそれでもいいのです。

ただ、お金は非常に便利なものとして人間が作り出した歴史です。その便利を活かしつつ、もし、それで忘れてしまったものがあり、それで苦しむのならば、次の人間や自分がそれに気づき、考え、変えていけば良いだけの話なのです。

 

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きっと大事なのは、人が自分の経験や知識、力がどれだけ自分の生活や、私たちの世界に影響する・しているものになっているのか気づき、身の回りの生きている環境を知ることです。

このことを、自分自身で考え、頭の中に落とし込んでいくことで、欲望がお金に左右されることが少なくなります。幸せを自分の環境の中で得ることができるのです。

つまり社会に左右されるのではなく、自分で自分の幸せを決め、自分で自分の生活を選ぶことができるようになるのです。自分自信で、欲望を抜いた、幸せの感じ方の物差しを作ってみるのです。

そのうえでできた人間関係ならば、愛とか感謝とか敬意とかは、必然的についてくるのではないでしょうか。

例えば、、

・私にない経験や技術を他人が持っているなどの敬意。

・経験や技術をお金で買わせてもらっているなどの感謝。

・給料が高くなくても、相手に好きなところがあり、一緒にいたいなどの愛。

だから、平和のためにお金を無くすとかの話でなくて、自分の力でどうにもならない部分を研究し、お金に頼るしかないと判断した場合、使うべきであるということだけだと思います。お金は便利さをもたらし、他の時間を増やしてくれます。お金によってより個人の個性を伸ばすことができます。得意を活かせるようになります。趣味に没頭することができます。いいものを作れるようになります。特別なものがなくても、生きていけるようにサポートしてくれます。そのような部分を忘れてはいけないのではないでしょうか。

 

真夜中のおなら的には、、

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健康で文化的な最低限度の生活をするためには、今の時代にお金は必要かもしれない。いや、お金が必要というよりは自分自身で考え、自分でどうにもならないことには、お金を使うようにしようかと、、

自分で水を汲んでくる、自分で生きるための食料を作る、自分で電気を作る、自分の趣味を何かと交換してもらう、、などなど

生活の身の回りを充実させるだけで、忙しくて1日が終わります。いつか、自分でこのようなことまで全てやりたくなったら、これをするかもしれません。ただ、別にそこにお金は関係ありません。ただ、趣味としてやるので。

そこで真夜中のおならは、お金を大事にするものと捉えるのではなくて、お金は私たちの生活を便利にさせてもらっているものと考えることにしました。お金がなくても、いろんなことができます。

しかし、あることで生活を簡単にし、その他の時間を増やしてもらっている。ただそれだけの存在なのです。お金によって得ているいらない便利さと、本当に必要な便利さを見極めていこうと思います。

だから、お金による幸せの優劣とかはないのです。

だから、お金はいらないわけでもないし、嫌いなわけでもなく、ただそこに存在しているものとして考えて行こうと思います。

そして、最後に言いたいのは、

 

幸せをお金ではかるのも間違っているし、信用ではかるのも間違っている。

それだけです、

 自給自足シリーズはこちら↓

 

mayonakanoonara.hatenablog.com

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ちなみに、このときの携帯のスクリーンタイムは、1日平均4分でした。携帯やsns依存症の人、自給自足いいかもしれません。そして、別に好きなことをしていたら、本当に携帯やお金などは使わず幸せに生きていけるかもしれません。

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「お金がないと生きていけない」という洗脳的な固定概念が嫌いで、社会的に強いられるそれから解放されるために、0ユーロの自給自足生活をしました。言葉だけ聞くと、「やってみたい!」「面白そう!」とか思うかもしれませんが、やる以前の見た目の感情と、やってみるのではかなりの差があります。

これはやってみないとわからないことですし、趣味の範囲なのできっと好き嫌いが分かれることです。しかし、お金がない生活というのは「人間らしさ」というのを教えてくれるとか、それが「人間らしさ」とかいうことではなくて、「人間らしさ」を考えるための種になるということです。