世界のユースセンターを巡る旅人

世界を旅する日本人とフランス人の話。

徴兵制より自給自足をすべき理由

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自給自足体験からの提案

私たちは以前、自給自足&0ユーロ生活をしました。そこで感じたのは、人間が人間を見直すため、そして社会で築かされた私たちの身勝手な当たり前や常識を確認して、自分の幸せを見つめ直すために、全ての人が自給自足体験をやってみてはどうかというのはものです。

小学校や中学校で行う、キャンプファイヤーなどの宿泊学習もいいかもしれませんが、それよりもっと自然に近いもの、自由が多いものを期待します。そして、若者自身が主体で、若者自身が動いて経験する、若者みんながPDCAサイクルを実体験できるような学習をすべきだと思います。

 

 

学校教育は幸せに生きるために必要なのか

学校教育の場で学ぶことは、我々に知識を与えるとともに、社会的常識を築かせるように導いていると感じる部分があります。

「社会に出たら、このようにすべきだ!」「そんなんじゃ社会で通じない」「社会に出るため、しっかりとした大人になるためにこんなことを学ばないと行けない」などと、、だいたいの答えを学校の先生が握っていて、それを教えるだけなのです。

しかし、それら全てが生きるために本当に必要なことでしょうか。学校教育で築いた常識が、人が幸せに生きるということと直接的に結びついているのかどうか、私は疑問に思います。

例えば、人に会ったら挨拶をする。ご飯の前にいただきますをいう。先輩には敬語を使う。先生を先生と呼ばないといけない。人を傷つけてはいけない。
このような沢山のことを学校で学びます。しかしそれら社会のための常識は本当に生きるために必要なのでしょうか。それをしないと、本当に幸せに生きていけないのでしょうか。果たしてそれをしたら、幸せになれるのでしょうか。

こんなことを考えていると、学校で学び、現在、自分がしている言動や行動の意義が、頭の中の話で収まってしまうようになります。そして、自分がすること、言動や行動に対する裏付けとなる理由・意見が実体験を通さないことで、生きるということに直接的に結びつきづくなります。その結果、幸せに生きるということが、浮遊する理想となり、足下を見つめられなくなるのではないでしょうか。社会的常識に、幸せに生きるという言葉が翻弄されるのです。

なぜなら私自身がそのような社会的常識を習ったのにもかかわらず、今までなんとなく過ごし、何が幸せかわからずにいて、自給自足をしたときに学校では気づけない幸せを得ることが多かったから。

そんなことを感じているうちに、愛国心だとか、自国の防衛だとか発展だとか言って徴兵制を進める国々があるけども、自給自足体験した方が人が成長するんじゃない?と感じ、今、言葉を綴っています。

 

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徴兵制で人々を教育しようとする国

最近、僕はフランスにいるのですが、よく50代・60代くらいの大人からこのようなことを耳にします。
「最近の若者は他人に尊敬がない。」
フランスは、1997年まで徴兵制があった国です。それ以降の若者のことをさして、人々を尊敬しなくなったという大人が多くいます。徴兵制は、人が人を尊敬するために、うまく機能していたのではないかと考える人もいます。僕が思う尊敬は、以下記事にて書きました。

 

mayonakanoonara.hatenablog.com

 

近年、フランスやスウェーデンで徴兵制が復活してきています。フランスでは6割の人がこのことに賛成していると言われています。

徴兵制と聞くと、体を鍛え、軍事的なことを学ぶことだともう人も居るかも知れません。しかし実際のところ、社会奉仕を通して国民を団結させよう思案にとどまっているのがフランスです。つまり、過去に行われていた徴兵制とはかなり異なる形で、現在、フランスの徴兵制度は思案されているのです。

 

徴兵制でないと国民は団結できないのか

しかし、私にとってこのような部分は学校教育でも補えると思います。果たして、国民を団結させようとするのに、徴兵制は必要なのでしょうか。そもそも、国民を団結させるという国の野望は必要なのでしょうか。

僕は日本に生まれ育ち、日本の公教育を受けてきました。学校で国歌を歌い、礼儀を習い、団結力を学びます。このことは、日本の社会的常識の基礎、根本に置かれる思想なのではないでしょうか。これらがあるからこそ、日本人は海外に行っても礼儀正しいという認識があり、真面目そうなイメージがあるのかも知れません。そして日本の社会は、それらのまとまりによって動いていると感じます。

つまり、徴兵制をしてもしなくても、公教育によって国民をある程度まとめることができるはずです。ただフランスにとって、徴兵制によって人を尊敬するようになるかも知れない、人が団結するようになるかも知れない、という可能性があるだけなのです。

そのようにして作った団結は、結局は国が作った社会の常識のかけらに過ぎません。つまり国が作った国の団結となり、人が作った国の団結ではないのです。僕にとって、この団結はそこまで強くない。なぜなら、個人が他からの動きによって作られたものであるからです。

ならば日本に中途半端な尊敬や団結が程度ある中で、何をしたら良いのでしょう。日本人という常識が染み付いている人が多いなかで、何ができるのでしょう。ここに、僕が徴兵制よりも自給自足生活を体験すべきだと考えるポイントがあります。

 

徴兵制も学校教育も同じような構造

本格的な軍隊もそうだし、フランスの奉仕的な徴兵制でもそうなのですが、それらは結局、上に立つ人がいて、下にいる人がいる。という構造関係になります。この下の部分に、徴兵制度によって召集された若者が入ることになるのです。これって、学校とそんなにかわりないんじゃないでしょうか。ただ上に立つ人がいて、若者はその下として動く。先生がいて、生徒がいる。日本の学校教育でも同じ構造になるはずです。

ルールを守らなければならないし、上の者を尊重しなければならないのです。

若者は、教えられたことを消費して、そこから自分で学ぶということだけになるのです。半強制的な上に、若者は教えられるという受け身になったとき、そこにあるのは人間としての成長なのか、今の社会に見合った成長なのか、国のための成長なのか、もしくは逆に腐敗なのか、わからなくなるのではないでしょうか。

ここに、個人の心理的状況の不安定さが露呈する可能性があります。個々が安定できないと、個人の幸せの概念もゆらぐはずです。

 

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幸せを感じられない人がいるから争いが起きる。 

私は、個人の幸せの概念の形成のために、自給自足をすることが良いと思います。

自給自足では、学校教育で習った常識を延長させていくだけでなく、少し壊す、生きる、ということにフォーカスした活動をすることで、何が大切か、何が無駄かを個人が、個人の力で選択するために考えられるようになります。自給自足生活をするのに、上司も社会的常識もなにもかもが1回リセットされるのです。なぜなら、異なる常識の場で、人は生きていかなければならないと感じるから。

徴兵制のように上から下に無理やりやらせるとか、社会的常識のなかに常に閉じ込めたままにするのは、結局、普段見ている生活と何ら変わりないのです。

なので、自給自足のような「生きる」をしなければ死んでしまう環境を経験する事で、「生きる」をより身近に、自分の頭、手で、感じることができます。こんなことは、金銭や、社会というシステムを人間が作った今、なかなか見えづらくなっている幸せの部分なのではないでしょうか。

この幸せの考え方を安定させる種を得ることが、自給自足で得られる最大の経験であると思います。

死ぬときのなって、「ああしとけばよかった」「こおしとけばよかった」では遅いのです。生きている間、できる間に自分の本当にしたいことをしなければいけない。だったら、無駄な欲望とかを弾き、自分の本来したいことを研究しなければなりません。

人が幸せを感じるならば、争う必要はなくなるはずです。

徴兵制ではなく、自給自足をすることで幸せを実感して戦争を抑制するというのはいかがでしょうか。

今、社会に問いたい。

 

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