黙認される体罰
いろんな大人が子どものために「ときに体罰が必要だ」と言う。フランスのある政治家は、「体罰は親の権利。それをしないということは教育することができない。」と言った。
体罰と聞くと酷い暴力だけのように考える人もいるが、おしりをたたくや罵倒する、お仕置きなども体罰に含むことができる。大人が子どもに対して精神的、肉体的に一方的に苦痛を与える行為は体罰となりうる。
親から子どもへの体罰や教師から子どもへの体罰は、大きな問題になるまで人々が耳にすることは少ない。なぜなら、大きな問題はニュースとしてはとてもキャッチーで皆が注目するからだ。
しかし、体罰は報道される以外でも常日頃起きているというのが現状だろう。家庭内や部活動にまで目線を下げたとき、罵倒する、少しビンタをするなどのことは頻繁に起きているのではないだろうか。
日本の体罰
日本では6割の人が体罰を容認する考えであるという調査結果がある。また、7割の子育て世代の大人が子どもをたたいたことがあると回答している。*1 つまり大きな事件を除いても体罰は存在し、体罰を受けたことのある子どもはたくさんいる。7割の親が体罰をしたならば、子どもの7割が少なくとも体罰を経験しているというのが現状である。プラス、学校での体罰となれば、多くの子どもが体罰を経験したことになるのではないだろうか。
体罰容認派の矛盾
大人はよく「人を傷つけてはならない」という。理由は簡単だ、基本的人権を尊重しなければならないからだ。
だがそれを教えるはずの大人が子どもを傷つける。何か矛盾していないだろうか。
大人がイライラして人に手を出したら警察が来るのに、なぜ子どもにイライラして手を出しても警察が来ないのか。なぜイライラして子どもを怒鳴りつけても容認されるのか。子どもは傷つけられているのに。。
逆に体罰をしている大人に問いたい。「あなたは無意味に人に殴られても、警察にいかず、誰にも言わず、黙っていられますか?」
よく大人は「昔自分もされた。だから教育のために必要。」だとかくだらないことを言う。
でも「自分がされていやなことは、人にしてはいけない」とか、「やられたらやり返すのは間違っている」とか子どもに言う癖して、自分が実行しているという矛盾。
そこに気づいていない大人は多いのではないだろうか。
体罰は差別
体罰は力的に劣る子どもに対して、自分の強さを誇示して子どもを服従させることが目的になっている。つまり大人の方が力的に勝るのは必然であって、それを行使し力関係で服従させることは差別に当たる 。
家庭内での子どもに対する恐怖政治である。
体罰をされて育つということは
体罰を受けて育つということは、体罰のある教育しかしることができない。つまり体罰のない教育がどのような結果をもたらすのかしらない。そういった大人を、社会は生み出している。
日本人の7割以上が体罰を経験しているのなら、教育にお仕置きぐらいの体罰なんて問題無いと考える大人は多くいる。つまり、子どもを服従させるための体罰をして、教育することしか知らない大人が世の中には多く存在している。
体罰のない教育
今、世界中で体罰を禁止する法令が広まってきている。日本もその風に乗ることになった。
mayonakanoonara.hatenablog.com
これから先、体罰のない社会が少しずつでも進行していくであろう。その行く末は誰もわからないが、他国の事例は参考に値する。
そして全ての子どもを持つ親、子どもを育てることになる人、子どもを育てた経験がある人、教育に関わる人にこれhttp://www.savechildren.or.jp/scjcms/dat/img/blog/1713/1412921460115.pdf を是非読んで欲しい。