年を取れば尊敬される。
たしかに経験は増えるかもしれないが、それが全てではないのでは。
尊敬する、しないは社会が年功序列などのシステム的に決めることではなく、個人が主体的に決めるものではなかろうか。
他人や社会が斡旋してする尊敬、そんな尊敬は真の尊敬といえるのだろうか。
経験を自慢して尊敬される対象となりたいのは、ただ他人とひき比べて自分自信を優位な立場にしたいだけの年長者による欲望に過ぎないのではないだろうか。
経験はたしかに個人の中で自信になるかもしれない。
しかし、個人の自信と他人からの尊敬は別ものである。
システム的な尊敬を、身勝手に自信にはしていないだろうか。
自分よりも若い人から、自分のことを何も知らないまま尊敬されて喜んでいる大人は多いのでは。
もし尊敬がほしいのならば、経験をもとに、その人が人生をどのように捉えどのような学びをしてきたのかを考え、他者と共有していく必要があるのではなかろうか。
もしくは、超カリスマになるか。
そこまでしてやっと、尊敬してくれる誰かができるのでは。
尊敬されたいという欲望のためなら、それを成すべきかも知れない。
会ったこともない、よく知らない誰かを年上だから尊敬しろと言われても、無理があるだろう。
「師弟関係」とはそもそも、師の方から弟子として認定するのではなく、弟子が自分の師を定めるものである。
つまり尊敬とは、他者との関係で、尊敬の対象になりたいと考えている人が尊敬を助長するのではなく、相手が自ら生み出すものである。
この基本的前提を忘れている人が多いのではなかろうか。
そして形式的な尊敬の下で、若者は生かされてはいないだろうか。
今、社会に問いたい。